『葉っぱのフレディ』という有名なお話があります。

アメリカの教育学者、レオ・ブスカーリア(Leo F.Buscaglia)による、「いのち」とはなにか? 「いのち」はどのように巡っていくのか、というテーマを、小さな子どもが読んでもわかりやすく描いた絵本です。



お話しのあらすじは、こんな感じ。




春、大きな木の枝に生まれた葉っぱのフレディは、友だちの葉っぱたち、アルフレッド、ベン、クレア、そしていろんなことを知っているダニエルらと一緒に、元気に育ちます。フレディは、この若葉の季節を、葉っぱに生まれたことを心から喜びながら、思いっきり生きていくことを楽しむのでした。



夏、大きな葉っぱに成長したフレディは友だちたちと体を寄せ合い、憩いを求めて木の下に集まる人たちに木陰を作ってあげたりもしました。



そして季節は巡り、秋になりました。
フレディたちはさまざまな色に紅葉していきました。しかし、どれ一つとして同じ色はありません。このときフレディは、「個性」というもののすばらしさを学びます。


秋も深まり、友達のアルフレッド、ベン、クレア、そして他のたくさんの友だちは枝から離れて引っ越ししてゆきました。最後まで木の枝に残ったのは、フレディとダニエルの2人。しかしある日、ダニエルもフレディに「僕も引越しをしなければならない」と告げます。ついに「その時」が来たのです。


フレディは、ダニエルが「引越し」といった言葉の意味が「死ぬ」ことではないのかと気づきます。フレディは、「僕は死ぬのがこわいよ。だって、死んだあとどうなるのかわからないんだもの」、とダニエルに訴えますが、ダニエルは優しくフレディに言います。

「フレディ。僕らはだれだって、よくわからないことはこわいと思うものなのさ。それはあたりまえだ。でもきみは、春が夏になってもこわくはなかっただろう。夏が秋になったときもそうだったよね。季節が変わるのは、自然のなりゆきなんだ。だから、いつの日か僕らが死ぬ季節というのがやってきたとしても、こわがることなんかないんだよ。僕らがいるこの木もいつかは死ぬ。でも、この木よりもっと強いものがあるよ。それは “いのち”なんだ。いのちは永遠につづくんだ。そして僕らはみんなそのいのちの一部分っていうわけなのさ」。



そう言ってダニエルは去ってゆきました。



雪の降った翌朝、とうとうフレディも静かに枝を離れて旅立ってゆきました。

ゆっくりひらひら舞いながらフレディがたどり着いた先は、雪が降り積もってふんわりとした、木の根元でした。このとき初めてフレディは木の全体の姿を見ました。なんて大きく、立派な木なのでしょう。ふわふわ温かい木の根元の雪の上。そこは なぜだかやわらかくて、ぬくもりすら感じられました。 こんなに居ごこちのいいところは、はじめてでした。



フレディは 目をとじると、永遠の眠りにつきました。



春になって雪がとけ、フレディたち落ち葉は水に溶け込み、土に返り、木を育てて新たな葉っぱが生まれる力となるのです。大自然はこうして、これからもずっと命を変化させ続けていくのです。 (おわり)


さて、季節はいまちょうど、このお話のように綺麗に色づいた葉っぱたちが枝から離れて、地面に落ちてゆくときです。

私が住んでいるマンションには、ちょっと広めのパティオ(中庭)があり、そのパティオの真ん中に、大きなケヤキの木がそびえたっているのですが、そのケヤキはいま、とても綺麗な紅葉を見せながら、毎日すこしずつ葉っぱを地面に落としてゆきます。



先日、1111日には「木枯らし一号」が吹き、いつにも増して、たくさんの葉っぱが枝から離れてゆきました。その日はなんだかとても寒い一日でした。


そして、その日の夕方、突然、訃報が舞い込んできました。
同じマンションで親しくおつき合いさせて頂いていたごOさん夫妻のご主人が、その日の朝、突然亡くなった、というのです。

だいぶお歳を召したOさんは、以前から身体のあちらこちらを悪くされており、よく奥様と一緒に病院に出かける姿をお見かけしていました。
ちょうどその日から一週間ほど前にもパティオでご夫妻にお会いし、「ごきげんいかがですか?」「まあ、あいかわらずですよ」という何気ない挨拶を交わしたばかりでした。

その日の朝も、ご夫妻で病院に検査に行こうとタクシーを呼び、タクシーが着く頃にご主人が先に外へ出でいったそうです。しばらくして、奥様が後を追うように外へ出てみると、彼女はパティオの隅っこにある木のベンチで静かに横たわっているOさんを見つけました。しかし、Oさんは、その時すでに息を引き取られていたそうです。


おそらくOさんは、奥様が出てくるまでベンチに座って、秋の朝の澄んだ陽射しの中、赤や黄色に紅葉したケヤキの葉っぱが風に吹かれて静かに地面に落ちてゆく姿を眺めながら、その葉っぱたちと同じように、静かに安らかに旅立ったのでしょう。

私は、「死とはなにか」「いのちとはなにか」ということについて、要は『葉っぱのフレディ』で語られているようなことだ、と頭ではわかっています。
「死」はなにもこわいことでも、いやなことでもない、と思っています。いや、思っているつもりかもしれません。

ですから、Oさんが亡くなったときも、「ああ、その時が来て、自然の中へ静かに還っていかれたのだ」と思いました。けれども、その夜、陽もとっぷりと暮れて、息子を迎えに幼稚園へ向かって自転車をこいでいる途中、Oさんのことを思い出して、なぜだか涙が次から次へとあふれて止まりませんでした。


やはり、身近な人の死は悲しいのです。頭では「けっしてて悲しむべきことではない」と思っていても、感情の部分では、とても悲しいできごととして感じ、自然と涙があふれてくるのです。

人間とはそういうものだと思うのです。



翌朝、私はOさんが旅立たれたベンチに腰かけて、彼が最期の瞬間に見たであろう風景をぼんやりと見つめながら、いつまでもいつまでも、枯葉が落ちてゆくのを眺めているのでした。


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