人生には、「ああ、もうダメだ」、と思う瞬間が何度かある。いわゆる「万事休す」という状況である。


 

 今回、関東甲信地方を襲った記録的な大雪。猛吹雪の中、降り積もった雪を一歩一歩踏みしめながら歩いていたら、ふと、「ああ、もうダメだ」と思った時の、遠い記憶がよみがえってきた。


 

 

 あれは、ぼくが21才の頃だった。季節は1月。ぼくは独り、ドイツの首都ボンにいた。その年はヨーロッパに何十年ぶりかの大寒波が襲った年だった。しかも極寒のドイツ。大雪が降り積もり、気温はおそらく零下20℃は超えていたと思う。

 誰ひとり知り合いも友人もいないこの地で、一文なし。宿なし。寒さと空腹で意識は朦朧。まさに陸の孤島とはこのことだ、と思った。


 

 ぼくはそのとき、旅をしていた。当時パリに住んでいたのだが、クリスマスをパリで過ごし、翌日夜行バスに乗って旅立った。Nという年上の女と一緒だった。目的地はなかった。とりあえずロンドンを目指し夜行バスに乗り、その日の夜、カレーという街に着いた。カレーは、フランス北部のドーバー海峡に面する港街だ。

 

 カレーの安宿で一泊したぼくらは、翌日フェリーに乗りドーバー海峡を渡り、イングランドに着いた。新年をロンドンで迎えたぼくらは、すぐにドイツを目指して再びドーバーを渡るベルギー行きのフェリーに乗った。

 

 だいたい物忘れの激しいぼくだが、あのとき船上のデッキから見たイングランド岸壁の白さと、海の深いグレーがかった緑色はいまでも忘れない。

 

 ぼくはなぜだかわからないが、海に向かってコインを一枚投げ込んだ。コインはゆらゆらと、深い海の底へ沈んでいった。あのときのコインは今でもドーバー海峡の海底に静かに眠っていて、もう永久に誰の目にも触れることがないのだと思うと、世界中の誰も知らない秘密を自分だけが知っているような気がして、なんだかわくわくしてくる。


 

 船はベルギーの港街に着き、ぼくらはすぐにドイツ行きの列車に乗った。列車が出発したのは、夕方だったような気がする。窓の外には雪が降っていた。

と、突然、ベルギーとドイツの国境付近の駅で列車が止まった。

 

 何事かと思っていると、なにやら物々しい雰囲気で兵士風の男たちが数人乗り込んできた。ドイツの国境警備隊だった。彼らは乗客ひとり一人に、パスポートの提示を求めながらぼくらの方に近づいてきた。ぼくは少し血の気が引いた。「やばい、捕まるかもしれない……」と思った。

ぼくのパスポートに押してあるいくつかのスタンプに少々問題があったからだ。

 

大柄なドイツ人隊員の一人がぼくの目の前にやってきて、英語でゆっくりと、「パスポートを見せろ」と言った。


 

 

つづく