さて、第4章「命のビザ」を書いてから随分と日が経つ。

この蒸し暑い梅雨空の下、極寒のドイツでの話を語るなど、まったくもって季節はずれこの上ない訳だが、やはり書き続けなくてはならない。


 まあ、この駄文の読者が何人いるのか知らないが、例え読者がたった一人であったとしても、その人のために、ぼくは書き続けなければならない。それが物書きというものだ。

 話は逸れるが、ぼくはここ何年か毎日、日記を書いている。一日も欠かさずにだ。以前、その日記の一部をこの場で公開したことがある。しかし、日記というものは、通常他人には見せない。この先何年も、何十年も書き続けても、その日記の読者はどこにもいない。


 そう思いながら毎日、毎日徒然なるままに書き綴っているわけだ。だがしかし、書くと言う行為は、音楽や絵画、写真や映画といった芸術と同じく、それを受け取る人がいるから成立する創作活動だ。

そもそも芸術創作というものは、コミュニケーション手法の一つであろうと思う。それを観る、聞く、読む、または感じる人が居ないと、その存在意義がないからだ。


だからぼくは、日記を書く時、一応ある一人の読者を想定して書くことにしている。それは息子だ。息子は今日ちょうど7才になったばかりである。

ぼくが死んだ時、息子がこの日記を読んで、「ああ、親父もなかなか面白い奴だったな」、などと思ってくれたらそれでいい。その日のために、毎日粛々と書き続ける。


能書きはこれ位にして、本編に戻ろう。


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■第5章 「冷たい女」



ぼくとNは、西ドイツのフランス大使館から発行されたフランス再入国ビザを握りしめて、雪道をかき分け歩き、やっとボンの駅に着いた。寒さと疲労と空腹で意識も朦朧としていた。


 ぼくらは、とにかくパリ行きの列車のチケットを買おうとした。財布の中からドイツマルク紙幣をかき集めた。

そして、ゆっくりとその紙幣の金額を数えた。嫌な予感がした。Nに、「おい、君、幾ら持ってる?」と訊くと、Nは手持ちの金額を答えた。ぼくはもう一度、自分の財布の中の紙幣を数え直した。

そして愕然とした。

パリまで行く、二人分の列車代がない…。


Nは、「どうしたの?」といった風に首を少し傾げて、こちらを見た。ぼくは、ゆっくりと説明した。いま我々の身に降りかかっている最悪の事態を。

その瞬間、Nの表情はたちまちこわばり、沈黙した。ぼくも沈黙した。

ここは冷静にならなければいけない場面だ。人間、最悪の事態に陥った時こそ、最も冷静にならなければならない。


 もう一度、二人が持っているお金の合計金額を計算してみた。そしてあることに気が付いた。それは、「一人分のチケットだったら、買える」 ということだった。

 ぼくはNの眼を見つめて、静かに言った。

「一人分のチケット代ならあるよ。つまり、君と俺のどちらか一人ならパリへ帰れるということだな」

その時、Nの瞳孔が一瞬パッと開いたのを、見逃さなかった。


ぼくはもう一度言った。

「どっちか一人なら帰れる。今なら」


 当然、Nは逡巡するだろう、と思った。

しかし彼女は、間髪おかずに答えた。

「じゃあ、私帰るね」


 その顔には薄らと笑みさえ浮かんでいたように思えた。

さらに、「だいたい、こんな事になったのは、あなたのせいなんだから」と詰(なじ)るように言った。

 唖然とした。「おいおい、そりゃねえだろう!」と心の中で叫んだが、ぼくは心の動揺を隠して平静を装った。そして、ぼくも間髪おかずに言った。


「そうか。わかった。じゃあ君だけ帰れよ。まさに不幸中の幸いじゃないか。俺は一人でなんとかするから大丈夫だ」

 彼女の冷徹な反応には一瞬びっくりしたが、その時はそう答えるしかなかった。

だってそうだろう。女と二人、海の中で溺れて死にそうな時に、1本のロープが差し出されたとする。誰だって当然、女に先にロープにつかまるよう促す。それがどんな悪女であったとしても、だ。


 その時は、そんな心境だった。まったく交渉の余地はなかった。

なぜなら、極寒のドイツで、ぼくらは本当に寒くて、空腹で、疲労しており、肉体的にも精神的にも、もはや限界という状況だったから。どちらか一人が助かるのなら、生きのびるべきだ。



Nはすぐさまパリ行きのチケットを買い、列車に飛び乗り、振り向きもぜす去って行った。「冷たい女だな」と思ったが、そんな事は最初から分かっていたのだ。彼女を責めるよりも、そんな女に振り回された自分に腹が立った。


ぼくは極寒のドイツ、ボンの街で独りぼっちになってしまった。もちろん、ドイツ中を探したって、誰ひとり知り合いも友人もいない。“陸の孤島”とはこのことだ。



さて、どうする?


つづく