ぼくは極寒のドイツ、ボンの街で独りぼっちになってしまった。時刻は夕方。外は吹雪。気温はおそらく零下10℃以下。空腹。

 さて、どうする? ぼくは自問自答した。このままここでじっとしていても始まらない。

 

 ぼくは、おもむろに、駅を出て、吹雪の中に向かって歩き始めた。




 駅の観光案内所のようなところで貰った地図を頼りに、ひたすら歩いた。目指すは幹線道路(国道)。そこまで行って、ヒッチハイクをするのだ。ヒッチハイクをしてフランスまで帰る。きっとなんとかなるさ。



1時間は歩いただろうか。やっと国道らしきところへたどり着いた。そのとき持っていた旅行鞄はなぜか荷物がいっぱいでかなり重く、衰弱しきった身体からさらに体力を奪っていた。ちなみにそのバッグはバックパックなどではなく、パリで買ったUpla(ウプラ)のちょっと小洒落たモスグリーンの本革製旅行鞄だった。こんなファッショナブルなバッグを持って一文無しで放浪している男がどこにいるだろうか。自分で自分が滑稽に思えた。



国道に着いたのは、おそらく夕方の5時過ぎくらいだったろうか。片側3車線の広い道路を大量の車が猛スピードで行きかっている。

 ここに来るまで、どちらの方向を目指して、どこの街を目指してヒッチハイクするかは全く考えていなかった。「とにかくヒッチハイクをして、できるだけフランス国境近くまで移動する」。それしか頭になかった。

 ぼくはここでもう一度地図を開き、いま自分がいる場所と、目の前の道路がどの方向にどのように伸びているのかを確かめた。そこで閃いた考えはこうだ。

「できるだけフランス国境に近い大きな街まで行く。そこへ行けば、たぶんフランス行きのトラックが多いはずだから、そこからまたフランスに向かってヒッチハイクをする」

 

地図を見ると、ここから一番近い大きな街はKöln(ケルン)だった。ふと、「ケルンといえば、オーデコロン(ケルンの水)の語源となった街だな」と思ったが、そんなことはどうでもいい。とにかくケルンを目指すのだ。


ぼくは手にしていた段ボール紙に、マジックで「Köln」と大書きした。しかし、あの時、あの段ボール紙とマジックをどこで手に入れたのか、今となってはまったく思い出せない。不思議だ。

 ぼくは道端に立って、そのボードを両手で高々と掲げた。人生初のヒッチハイクだ。基本的に楽観的なぼくは、たぶんすぐに停まってくれる車が現れるだろう、と思っていた。

 30分が経ち、1時間が経ち、やがて2時間近く経った。その間に何十台もの車が通り過ぎて行ったが、一台も停まってくれなかった。どの車も、停まる気配すら見せず、ぼくの目の前を猛スピードで疾走していった。


考えが甘かった。疲れた。気力も萎えた。あたりはすっかり夕闇に包まれていた。「もうこれ以上ここに立っていてもらちがあかない」。諦めたぼくは、またボン駅に向かって重い荷物を引きずるように歩きはじめた。

いま冷静に考えれば、このヒッチハイクはかなり無謀な行動だった。悪条件が重なり過ぎていたのだ。

 

まず、ぼくの風体。 

 この辺りでは見かけない謎のアジア人。年齢不詳、国籍不明。しかも全身黒ずくめ。ちなみにその時の格好は、黒い山高帽を被り、黒いマフラーを巻き、黒いロングコートを羽織っていた。そして、これまた謎の大きな鞄。どう見ても普通の旅行者には見えない。誰が見ても怪しい。怪しすぎる。もし自分が運転手の立場だったら、こんな男は絶対に乗せないだろう。一分の迷いもなくだ。

 

さらに悪条件が重なっていた。それは曜日と時刻だ。金曜の夕方6時前後。おそらくほとんどのドライバーは週末気分で帰途につく時間帯。きっとトラックだって、早く仕事を片付けようと急いでいたにちがいない。そんなときに、余計なトラブルに関わりたくないと思うのは当然だ。よほど酔狂なヤツでない限り、誰だってそう思う。その意味で、あのときのドイツ人ドライバーたちはみな実に賢明であった。



駅に着いたとき、陽はすでにとっぷりと暮れていた。金曜の夜。駅構内を、大勢の人々が週末の華やいだ雰囲気を放ちながら楽しそうな表情で行き交っている。

「ああ、俺は今からどうしたらいいんだ」

 しばらく考えたが、名案は浮かばなかった。「持っているモノを道端で売って金する」などという非現実的な考えも浮かんだが、すぐに頭から消えた。そして思った。

「よし、とにかく今夜は駅の地下道かどこかで野宿して、明日またヒッチハイクにチャレンジしよう」

 

寝るのにちょうど良さそうな場所を探して、あちこち歩き回った。しかし、歩いているうちに、少し冷静に今の状況を考えた。空腹、衰弱は極限状態。外気温はおそらく零下20℃近い。身体は冷え切っている。これから深夜にかけてさらに冷え込むだろう。意識は朦朧。

「このままここで寝たら、凍死するかも…」 真剣にそう思った。じゃあどうする? 

 

 その瞬間、ぼくは踵を返して駅のホームへ向かった。たしかホームの端の方に、ドイツ語でPolizei」と書かれたポリスボックスのようなものがあったはずだ。たぶん警察の施設だ。“ポリツァイ”と読むのだろうか? ドイツ語らしいカッコイイ響きだな、と思った。



「よし、Polizeiへ行こう!」

 

 ぼくは足早にホームへ戻り、薄暗がりの中に煌々と明かりの灯ったPolizeiの中へ、少し遠慮がちに入っていった。

 

狭い部屋の中には、3人の屈強な体つきの中年男がおり、突然入ってきた謎の東洋人に向かって一斉に鋭い視線を向けた。




つづく